バチコーン道場

和太鼓に打ち込む数学教師Mr.バチコーンのブログです。

重心で見る和太鼓界の成熟度

 私なりの和太鼓の見方は、打ち手が確かな重心移動で動けているかどうか。
 世の中では重心を動かさずに打つのが流儀の和太鼓が主流になっていて、重心操作を活用できている和太鼓なんて稀にしか見ることができません。
 そのレアなケースでさえ、曲の中のわずかなシーン限定だったり、なんとなく薄っぺらに使えている程度だったり、積極的に活用しようとしていても不細工で曖昧にしかできていなかったりすることがほとんどです。

 
 重心操作を積極的に活用する和太鼓として有名なのが、三宅島に伝わる三宅島太鼓。
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 低い開脚姿勢で左右に重心移動をしながら、その勢いで水平方向に太鼓を打ち込んでいきます。
 この左右の重心移動自体は見た目にも分かりやすく映るため、プロの佐渡の和太鼓集団鼓童が全国的に有名にして以降、多くの太鼓打ちに何となく真似されています。
 
 また、リズミカルな縦乗りが印象的なのが、滋賀に伝わる水口囃子。
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 こちらは秋田のわらび座が公演曲として取り入れて以降、全国的に広まり真似されてきています。
 この水口囃子では巧みな肘や指の使い方によって縦乗りの重心操作を音のメリハリ作りに活かしているのですが、手先のみの小細工でしか締め太鼓を打てないまま、ただ無意味に縦に揺れているだけの粗雑な打ち手が大勢います。
 
 重心操作を活用していることが少々分かりづらいのが、秩父に伝わる秩父屋体囃子です。
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 斜めにした太鼓の正面に座り込んで打つこの太鼓は、鬼太鼓座鼓童が全国的に有名にしましたが、そのせいで腹筋運動のような中途半端なキツイ姿勢で貝を割るラッコのように腕を振り回して打つ動作がメジャーになり、さらにその真似事がジャニーズの舞台にまで広まってしまいました。
 地元の祭りの担い手たちはそんな不自然な腹筋姿勢など取らずに、激しく打ちたいときはさほど目立たない重心操作を巧みに活用していますが、そうした流儀は全国の太鼓打ちにほとんど伝わっていません。
 
 こうした「和太鼓への確かな重心操作の活用」に誠実に取り組んできたのが、長野の田楽座です。
 元座員が立ち上げた「大太坊」は重心操作を活かしたアクロバティックな打法を取り入れて新たな創作太鼓の分野を切り開いていますし、吟遊打人の塩原良さんや和力の加藤木朗さんなどの元座員も、他の太鼓打ちが活用できていない巧みな重心操作によって独自性を打ち出しています。
 
 そして、当の田楽座は長年こだわってきた重心操作の活用を2000年代以降にさらに洗練させ、野生動物がじゃれあうかのような自然さで和太鼓を打つ方法を確立し、座員たちに脈々と受け継いでいます。
 そんな田楽座に和太鼓を教わり、確かな重心操作を常に活用することをテーマとして和太鼓に取り組んできた私には、筋力まかせで打っている和太鼓が不合理極まり無いものに見えて仕方がありません。
 重心を上手く活用できていなければ未熟だと見なされる他のスポーツと同じように、和太鼓の世界でも重心操作の活用が当たり前のことだと見なされていけば、観ていて面白い和太鼓がもっともっと増えていくだろうなあと思います。
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和太鼓を「日本の伝統芸能」と呼ぶのは恥ずかしい

 趣味の一環として和太鼓の世界に関わっていると「和太鼓は日本の伝統芸能である」という謳い文句をときどき耳にしますが、私はその仰々しいプロモーションを聞く度に恥ずかしい思いでいっぱいになります。
 今回は和太鼓を「日本の伝統芸能」と呼ぶことが恥ずかしいと感じる理由と、どう呼べば恥ずかしくないかという代替案について語ってみたいと思います。
 
 まず、インターネットで「日本の伝統芸能」と検索してみると、Wikipediaの「日本伝統芸能」というページが見つかります。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E8%8A%B8%E8%83%BD#.E4.BC.9D.E7.B5.B1.E8.8A.B8.E8.83.BD.E3.81.AE.E5.AE.9A.E7.BE.A9
 そこに書いてある説明をまずは紹介してみましょう。
 
「日本伝統芸能
伝統芸能(でんとうげいのう)とは、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。
特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事化したものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された、有形無形のものを言う。
詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある。
 
伝統芸能の定義」
伝統芸能とは、西洋文化が入ってくる前の芸術と技能を現代芸術と区別した呼称である。
日本固有の文化という意味だが、文化の先進国であった中国から流入したものを日本独自のものに作り変えたものが多い。
したがって成立の仕方は現代芸術とさほど変わりはない。
しかし、明治期の西洋化以降も伝統芸能が既存の形式を保持して存続し、現代芸術と相互に関連性が少ない形で併存しているのは事実である。
 
和歌、俳諧、琉歌、神楽、田楽、雅楽舞楽、猿楽、白拍子、延年、曲舞、上方舞、大黒舞、恵比寿舞、纏舞、念仏踊り、盆踊り、歌舞伎舞踊、能、狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃雅楽、邦楽、浄瑠璃節、唄、講談(講釈)、落語、浪花節浪曲)、奇術、萬歳、俄、梯子乗り、女道楽、太神楽、紙切り、曲ゴマ、写し絵、花火、彫金、漆器、陶芸、織物、茶道、香道、武芸、書道、華道などに分類される。
 
 ここで注目したいのは、これらのリストの中に「和太鼓」という単独のくくりが存在しないこと。
 これらの伝統芸能の中で楽器として和太鼓が使用されることはあるとしても、和太鼓単独では「日本の伝統芸能」としてリストアップされないのです。
 
 では和太鼓は伝統芸能ではないのか。
 日本の各地には、明治の西洋化以前から伝わる「太鼓の楽曲」も残されています。
 そういった曲のことを「伝統芸能」と呼ぶことに関して、私は何の抵抗も感じません。
 
 私が抵抗を覚えるのは「日本の」という大袈裟な言葉を冠に添えようとする瞬間です。
 それは「日本の」という言葉には「日本を代表する」といったニュアンスを聴き手に伝えてしまう可能性があるから。
 能や狂言や歌舞伎のようにガチガチに権威づけられ「日本を代表する伝統芸能」として宣伝され続けている芸能ではないのだから、そんな誤解の可能性がないよう「どこどこの地域の伝統芸能」といった等身大の呼び方をすれば良いじゃないかと思うのです。
 
 喩えて言うならば、各地の伝統芸能は地域ごとの方言のようなもの。
 自分たちが使っている方言のことを「地元の伝統だ」と言うのならまだ共感することはできますが、わざわざ「日本の伝統だ」なんて大袈裟に言いたがる人がもし仮にいたとすれば「なぜそんなに誇張したがるのか」と疑問を感じてしまいます。
 
 実際に各地の伝統芸能の継承者たちも、「日本の伝統芸能だ」なんて大袈裟な言い方はしません。
 だって、自分たちの地元で受け継いできた「自分たちだけの伝統芸能」なんですから。
 
 では、和太鼓のことを「日本の伝統芸能」と呼びたがるのは誰なのか。
 それは、明治の西洋化以前には存在していなかった「伝統とは縁遠い和太鼓パフォーマンス」に興じているくせに、身の丈以上に由緒ある存在として有り難がられたがる権威志向の人や、宣伝文句として有効なら何を言ったって構わないと考えるビジネス優先の人などです。
 
 和太鼓を主役扱いして舞台に上げるというジャンルが発明されたのは太平洋戦争以降のことですから、せいぜい70年程度の歴史しかありません。
 西洋の音楽教育の影響をおおいに受けた人たちが、伝統芸能の中で使われていた和太鼓という楽器に注目し、西洋音楽の素養をもとに造り上げられたのが現在の「和太鼓」という業界です。
 そんな戦後発祥の「和太鼓パフォーマンス業界」には、基本の構えだとか基本の打ち方なんて教えも流通していますが、これらの「基本」も伝統とは無縁のお作法です。
 
 だから、そこで流通している基本を学んだとしても、日本古来の伝統を受け継いでいることにはなりません。
 もしそれらの基本を「日本の伝統」だと言う人がいたとすれば、それは嘘か勘違いか誇張です。
 教えられた基本を守る人が実践しているのは、「日本古来の伝統の継承」ではなく「戦後の思い付きを伝統に育てようとする営みへの加担」なのです。
 
 私が心配するのは、和太鼓の担い手が「和太鼓は日本の伝統芸能なんだ」と強弁すれば、さほど詳しくない人は「立派な伝統のもとに脈々と受け継がれてきた格式高いものなんだな」という風に、それがたとえ「戦後の思い付き」でしかなくても信じ込んでしまうこと。
 そこにつけこんで「日本を代表する伝統芸能」としての権威を捏造しようとする発言者の下心を感じてしまうがゆえに、私は「和太鼓は日本の伝統芸能だ」という言い方に嫌悪感を覚えてしまうのです。
 
 私はこれらの嫌悪感を避けるために、便利な言い替えを意図的に使用しています。
 まず、各地に伝わる「本物の伝統芸能」「郷土芸能」について「日本の」という冠を敢えてつけるならば、権威を匂わせない「日本の民俗芸能」という言葉を選択します。
 誤解されることが多いのですが、「民族芸能」ではなく「民俗芸能」であるところが大事なポイントです。
 
 それは、民俗芸能という言葉が柳田国雄の「民俗学」から来ているから。
 西洋の諸勢力が世界中に植民地支配を拡大していた時代、世界中で発見された「文明化されていない未開の地の野蛮人」の生態を研究するための学問として「民族学」が生まれました。
 この学問の前提には、西洋圏以外の人々に対する見下しの目線が含まれていたため、柳田国雄は「西洋化以前の自分たちのルーツを発掘する」という意味合いで、見下しのニュアンスを含まない「民俗学」という言葉を選んだのです。

 
 さらに、戦後生まれの「和太鼓」に「日本の」という冠をつけるならば、「日本の伝統楽器を利用した舞台パフォーマンス」だとか「日本の民俗芸能からインスピレーションを受けた舞台パフォーマンス」と呼びます。
 「ご立派な権威とは縁遠い業界でしかない」という実態を、誤魔化さずにきちんと説明するならば何も恥ずかしいことはありませんから。
 私としては、変な誤解がこれ以上広まらないように「民俗芸能」という適切な言葉がもっと使われるようになって欲しいなと願っています。
 
 自分たちのステージに箔をつけるために、ついつい表現を大袈裟に盛ってしまいたくなる気持ちは分からないでもありません。
 ですが、そこに明らかな嘘が含まれている場合バレる人にはバレますし、それによって軽蔑や白けといった感情を生み出してしまうリスクも覚悟する必要があるでしょう。

和太鼓を張力で打とう!

 本文では、バチ先で扇形の弧を描こうとする打法を扇打ち、打面を一直線に狙い打つ打法を槍投げ打ち、体ごと打面に着地させる打法を綱引き打ち、と呼んで区別していく。
 3つの打法の違いは、ストローク(1往復の距離)を大きくすれば際立ち、小さくすれば目立たないものになる。
 
 和太鼓をバチで打つという場面では、どの打法だって編み出される可能性がある。
 同じ演目に共同体ぐるみで取り組み続ける祭の現場では、さまざまな打ち方の中でも「誰々の打ちっぷりが良い」といった意見交換がなされ、気に入られた技が見様見真似や口伝えでその地域の共有財産になっていくと、それが世代を超えた美意識として受け継がれていく。
 
 伝播の際により強力に働くのは見様見真似の方であり、その補助的な手段として口伝えがある。
 指導者がお手本をやってみせ、学習者に真似させて「そう」とか「違う」とか言っているだけで、長い年月を費やせば言い表しにくいノウハウも自然と伝播していく。
 言葉による助言は伝達効率を上げるかもしれないが、下手に誤解を生んで習得を妨げる危険性もあるので、助言がどれだけ効果的に働くかは紡ぎ出された言葉の表現力に左右される。
 
 一般に、その物事と末永く付き合っていくことが前提となる世界では、初心者が熟練者になるまでのプロセスを親切丁寧に導くマニュアルなんて存在しない。
 伝達のための言語表現が練られるのは、区切られた期間内で濃密に伝える必要に迫られたときであろう。
 
 和太鼓ビジネスの黎明期においては、ステージや教室などを担う人材を短期間で大勢生み出すことが必要とされた。
 全国各地には代々積み上げてきた熟練の技があったが、槍投げ打ちや綱引き打ちの要領は難解なため、新規ビジネスの現場には流通しなかった。
 こうして日本の和太鼓業界における打ち方は、単純でマニュアル化しやすい扇打ちの様式に染められた。
 
 和太鼓をマネタイズするにあたりもっとも効果的だったのが、一度の演奏に使用する太鼓の数を増やすこと。
 ビジネスの活性化以前は、数少ない太鼓でも音を豊かにしようと思ったら個々の技術をコツコツと磨くしかなかったが、台数の概念をインフレさせることで「お金さえ出せば迫力は作れる」という手軽な環境が日本に整った。
 
 次に効果的だったのは、日本の伝統を背負ったものとブランディングして売り出すこと。
 そんな流れの中、槍投げ打ちや綱引き打ちのような「長いストロークをまっすぐ打ち抜く」という見かけ上の特徴が、伝統由来の流儀として模倣された。
 もともとこれは太鼓の響きを効率よく引き出すため実践的な技術なのだが、ビジネスの拡大とともに本来の意義を体現する打ち手の割合は減り、伝統を演出するための単なるポーズとして多用されることになった。
 
 その第一歩が、両腕を高く上げること。
 ただ、この構えから肩や腰を支点にした大振りの扇打ちをすると、振りは大きくなるが弧の丸みが際立つことになる。
 そのため、こうした肩回転扇打ちや腰回転扇打ちといった打法は、打ち込みの「まっすぐっぽさ」にこだわる人からは嫌われることが多い。
 
 次の工夫が、肘から腕を下ろしつつ肘を支点に扇打ちするという方法。
 こうすると一見まっすぐ打ち抜いているかのように見せられるが、音のために効いているのは肘から先の回転運動だけであり、上腕の上下運動はただ単に「まっすぐっぽさ」を偽装するためのお飾りでしかない。
 こうして生まれた肩上下扇打ちはかなり広範に普及しており、これこそが和太鼓の様式美なんだと刷り込まれている界隈も存在する。
 
 さらなる工夫が、打つ瞬間に腰を落下させるというもの。
 この発想を追加トッピングすることで、腰上下肩回転扇打ちや、腰肩上下扇打ちが誕生する。
 どちらも民俗芸能っぽい味わいを標榜するチームに採用されがちだが、槍投げ打ちや綱引き打ちのような構造的昇華には届いていないため、本当にまっすぐ打ち抜けているときの効能や機能美は生まれない。
 
 実のあるフォームにするために重要なのは、手首の座標を直進させること。
 肩や肘は、突き進む手首のオマケとして振り回されているだけであり、この行為の主体とはなり得ない。
 このことを理解せずにまっすぐな打ち込みに近づけようとしても、肘や肩の回転に頼っているうちは半端な曲線軌道のままで終わる。
 
 手首のレーザービームを実現させる主役は、身体の内部で部位同士が互いに引き合う張力。
 振る意識よりも引く意識の方が優位に働いたとき、身体の部位の多くが引っ張られる側へとシフトし、そこから動作効率の上昇が始まる。
 
 このとき、肩と臍とを結ぶような斜めの方向に引っ張ると槍投げ打ちとなり、鼻と臍を結ぶ正中線の方向に引っ張ると綱引き打ちとなる。
 両者の違いが顕著に現れるのが、最大のストロークで強烈に打とうとするとき。
 
 槍投げ打ちでの渾身の一打は、右のバチなら左の股関節から、左のバチなら右の股関節から、それぞれ一気に引っこ抜くことで放たれる。
 体内の張力が最大限に発揮されるためには、伝達経路である腕・肩・胸・腹がピンと張っている必要がある。
 そのため、バチは耳の後方から引き絞られることになる。
 
 左右の半身を反対側の脚から引っ張っていく際の力の伝わり方が、槍投げのそれに似ていることが名称の由来である。
 槍投げの槍は斜め上へと放たれるが、その射出方向を打面に向ければ和太鼓用の技術となる。
 
 綱引き打ちとは、綱引きの要領でバチを引っ張る打法のこと。
 実際の綱引きでは前後に伸びた綱を前方からたぐり寄せるが、和太鼓における綱引き打ちでは上下に伸びた綱を上方からたぐり寄せるようなつもりでバチを引っこ抜く。
 そのため、バチは体前方の上空から引きずり降ろされる。

 
 上半身全体を骨盤から引っ張るこの打法では、伝達経路として躍動する肉の総量がさらに増す。
 この打法で張力を最大化するには、胸や腰など体幹を柔軟にしならせ、全身を一本の太い鞭として操ることが求められる。
 
 このように、最大ストロークにおける手首の発射位置、レーザービームの射出方向、それに付随して連動する身体部位の範囲などを観察すれば、槍投げ打ちと綱引き打ちの区別は付けやすい。
 さらに、打ち手の視線がどこを向いているかという点からも、両者の違いを判断することができる。
 
 打面を目視する必要があるかどうか。
 この点で、槍投げ打ちと綱引き打ちは大きく異なる。
 
 槍投げの目的は槍を遠くへ追いやることであり、槍投げ打ちは手中のバチを打面に放つつもりで行われる。
 槍を投げるときの視線が飛んでいく方向をかすめるのと同じように、槍投げ打ちで大きく打つときの視線もバチの到達点である打面を一瞬は捕える。
 
 綱引きの目的は綱を近くにたぐり寄せることであり、綱引き打ちは宙空に浮かんだバチを連れ戻すつもりで行われる。
 綱を大きくたぐり寄せるときの視線が前方を向いたままであるのと同じように、綱引き打ちの視線もバチの出発点である上方の空間に留まっていられる。
 
 前方から手前へと綱をたぐり寄せるときに、綱の進行方向を見ない理由は2つある。
 1つ目は、遠くへ飛ばす槍投げであれば槍の行き先への責任感が発生するが、自分のすぐそばにたぐり寄せる綱引きならわざわざ目視しなくても手元に綱があり続けることは分かりきってるから。
 2つ目は、綱の行く先を見ると背中が丸まって力の伝達効率が悪くなり、前方を向いて背中を伸ばすと牽引の効率が上がるから。
 
 同様の理由で、綱引き打ちでもバチの行き先となる打面を目視する必要はない。
 腹部のすぐ前がバチの収まり所だと理解できれば、どれだけバチを浮かべてもそこに一直線に戻すだけで良いという安心感が生まれる。
 その上で、宙空のバチを見上げつつ視線と逆方向にお腹を落下させれば、効率よく上半身を牽引できる。
 
 ここまでは、槍投げ打ちと綱引き打ちの違いを際立たせるために、渾身の一打という極端なシチュエーションを選んで説明した。
 そこからさじ加減を調節することで、ストロークも張力も小さい一打、ストロークは小さいが張力は大きい一打、ストロークは大きいが張力は小さい一打など、表現を自在に操ることができる。
 これまで詳しく解説してきた槍投げ打ちと綱引き打ちを「誇張し過ぎたバージョン」とみなすなら、そこまで激しくしない「良い塩梅のバージョン」も当然ある。
 
 極端に誇張しなければ、扇打ちも槍投げ打ちも綱引き打ちも、遠目にはさほど変わらない。
 正面を向いたままでも視野のどこかに手首が映る程度のストロークまでであれば、視線の向きは変わらないし、肉の躍動の差も僅かだし、手首の軌道の違いも目立たない。
 
 そんなわけで、張力の効かない扇打ちを主流としている和太鼓チームの中にも、槍投げ打ちや綱引き打ちを操る打ち手が紛れていることが稀にある。
 チーム内でも該当者だけは、扇打ちで力いっぱい演奏している打ち手と同程度かそれ以上の深い音を、力みなく軽々と操ることができる。
 ただ、いろんな曲に手を出しまくる和太鼓チームでは、動作の細かい質の違いにまでこだわっている余裕がなかなかないので、せっかく見出された打ち込みのコツがシェアされにくい。
 
 成熟した民俗芸能の現場では、槍投げ打ちや綱引き打ちを良い塩梅で操っている打ち手の割合がもう少しだけ高い。
 何故こんなに深い音を出せるのかと、不思議で仕方ないような高齢の熟練者も存在する。
 そんな妙技がこそが目指すべき姿だと認識され、多くの人がそこを追い求めて打ち込んでいけば、張力でバチを操るなんて初歩のコツだと感じられる場にだって成長できる。
 
 張力を用いたキレの良い技に、より多くの人が誤解なく近づくための工夫として、扇打ち、槍投げ打ち、綱引き打ちという大まかな分類を考案してみた。
 昔ながらの民俗芸能にはこのカテゴリーに収まらない特殊な打法も息づいているが、張力を上手く操る打ち手の方が動きにキレがあり芯のある音を生み出せるという点は共通する。
 言い落としているニュアンスもまだまだあるため、伝達のための言語表現をこれからも練っていきたい。