本文では、バチ先で扇形の弧を描こうとする打法を扇打ち、打面を一直線に狙い打つ打法を槍投げ打ち、体ごと打面に着地させる打法を綱引き打ち、と呼んで区別していく。
3つの打法の違いは、ストローク(1往復の距離)を大きくすれば際立ち、小さくすれば目立たないものになる。
和太鼓をバチで打つという場面では、どの打法だって編み出される可能性がある。
同じ演目に共同体ぐるみで取り組み続ける祭の現場では、さまざまな打ち方の中でも「誰々の打ちっぷりが良い」といった意見交換がなされ、気に入られた技が見様見真似や口伝えでその地域の共有財産になっていくと、それが世代を超えた美意識として受け継がれていく。
伝播の際により強力に働くのは見様見真似の方であり、その補助的な手段として口伝えがある。
指導者がお手本をやってみせ、学習者に真似させて「そう」とか「違う」とか言っているだけで、長い年月を費やせば言い表しにくいノウハウも自然と伝播していく。
言葉による助言は伝達効率を上げるかもしれないが、下手に誤解を生んで習得を妨げる危険性もあるので、助言がどれだけ効果的に働くかは紡ぎ出された言葉の表現力に左右される。
一般に、その物事と末永く付き合っていくことが前提となる世界では、初心者が熟練者になるまでのプロセスを親切丁寧に導くマニュアルなんて存在しない。
伝達のための言語表現が練られるのは、区切られた期間内で濃密に伝える必要に迫られたときであろう。
和太鼓ビジネスの黎明期においては、ステージや教室などを担う人材を短期間で大勢生み出すことが必要とされた。
全国各地には代々積み上げてきた熟練の技があったが、槍投げ打ちや綱引き打ちの要領は難解なため、新規ビジネスの現場には流通しなかった。
こうして日本の和太鼓業界における打ち方は、単純でマニュアル化しやすい扇打ちの様式に染められた。
和太鼓をマネタイズするにあたりもっとも効果的だったのが、一度の演奏に使用する太鼓の数を増やすこと。
ビジネスの活性化以前は、数少ない太鼓でも音を豊かにしようと思ったら個々の技術をコツコツと磨くしかなかったが、台数の概念をインフレさせることで「お金さえ出せば迫力は作れる」という手軽な環境が日本に整った。
次に効果的だったのは、日本の伝統を背負ったものとブランディングして売り出すこと。
そんな流れの中、槍投げ打ちや綱引き打ちのような「長いストロークをまっすぐ打ち抜く」という見かけ上の特徴が、伝統由来の流儀として模倣された。
もともとこれは太鼓の響きを効率よく引き出すため実践的な技術なのだが、ビジネスの拡大とともに本来の意義を体現する打ち手の割合は減り、伝統を演出するための単なるポーズとして多用されることになった。
その第一歩が、両腕を高く上げること。
ただ、この構えから肩や腰を支点にした大振りの扇打ちをすると、振りは大きくなるが弧の丸みが際立つことになる。
そのため、こうした肩回転扇打ちや腰回転扇打ちといった打法は、打ち込みの「まっすぐっぽさ」にこだわる人からは嫌われることが多い。
次の工夫が、肘から腕を下ろしつつ肘を支点に扇打ちするという方法。
こうすると一見まっすぐ打ち抜いているかのように見せられるが、音のために効いているのは肘から先の回転運動だけであり、上腕の上下運動はただ単に「まっすぐっぽさ」を偽装するためのお飾りでしかない。
こうして生まれた肩上下扇打ちはかなり広範に普及しており、これこそが和太鼓の様式美なんだと刷り込まれている界隈も存在する。
さらなる工夫が、打つ瞬間に腰を落下させるというもの。
この発想を追加トッピングすることで、腰上下肩回転扇打ちや、腰肩上下扇打ちが誕生する。
どちらも民俗芸能っぽい味わいを標榜するチームに採用されがちだが、槍投げ打ちや綱引き打ちのような構造的昇華には届いていないため、本当にまっすぐ打ち抜けているときの効能や機能美は生まれない。
実のあるフォームにするために重要なのは、手首の座標を直進させること。
肩や肘は、突き進む手首のオマケとして振り回されているだけであり、この行為の主体とはなり得ない。
このことを理解せずにまっすぐな打ち込みに近づけようとしても、肘や肩の回転に頼っているうちは半端な曲線軌道のままで終わる。
手首のレーザービームを実現させる主役は、身体の内部で部位同士が互いに引き合う張力。
振る意識よりも引く意識の方が優位に働いたとき、身体の部位の多くが引っ張られる側へとシフトし、そこから動作効率の上昇が始まる。
このとき、肩と臍とを結ぶような斜めの方向に引っ張ると槍投げ打ちとなり、鼻と臍を結ぶ正中線の方向に引っ張ると綱引き打ちとなる。
両者の違いが顕著に現れるのが、最大のストロークで強烈に打とうとするとき。
槍投げ打ちでの渾身の一打は、右のバチなら左の股関節から、左のバチなら右の股関節から、それぞれ一気に引っこ抜くことで放たれる。
体内の張力が最大限に発揮されるためには、伝達経路である腕・肩・胸・腹がピンと張っている必要がある。
そのため、バチは耳の後方から引き絞られることになる。
左右の半身を反対側の脚から引っ張っていく際の力の伝わり方が、槍投げのそれに似ていることが名称の由来である。
槍投げの槍は斜め上へと放たれるが、その射出方向を打面に向ければ和太鼓用の技術となる。
綱引き打ちとは、綱引きの要領でバチを引っ張る打法のこと。
実際の綱引きでは前後に伸びた綱を前方からたぐり寄せるが、和太鼓における綱引き打ちでは上下に伸びた綱を上方からたぐり寄せるようなつもりでバチを引っこ抜く。
そのため、バチは体前方の上空から引きずり降ろされる。
上半身全体を骨盤から引っ張るこの打法では、伝達経路として躍動する肉の総量がさらに増す。
この打法で張力を最大化するには、胸や腰など体幹を柔軟にしならせ、全身を一本の太い鞭として操ることが求められる。
このように、最大ストロークにおける手首の発射位置、レーザービームの射出方向、それに付随して連動する身体部位の範囲などを観察すれば、槍投げ打ちと綱引き打ちの区別は付けやすい。
さらに、打ち手の視線がどこを向いているかという点からも、両者の違いを判断することができる。
打面を目視する必要があるかどうか。
この点で、槍投げ打ちと綱引き打ちは大きく異なる。
槍投げの目的は槍を遠くへ追いやることであり、槍投げ打ちは手中のバチを打面に放つつもりで行われる。
槍を投げるときの視線が飛んでいく方向をかすめるのと同じように、槍投げ打ちで大きく打つときの視線もバチの到達点である打面を一瞬は捕える。
綱引きの目的は綱を近くにたぐり寄せることであり、綱引き打ちは宙空に浮かんだバチを連れ戻すつもりで行われる。
綱を大きくたぐり寄せるときの視線が前方を向いたままであるのと同じように、綱引き打ちの視線もバチの出発点である上方の空間に留まっていられる。
前方から手前へと綱をたぐり寄せるときに、綱の進行方向を見ない理由は2つある。
1つ目は、遠くへ飛ばす槍投げであれば槍の行き先への責任感が発生するが、自分のすぐそばにたぐり寄せる綱引きならわざわざ目視しなくても手元に綱があり続けることは分かりきってるから。
2つ目は、綱の行く先を見ると背中が丸まって力の伝達効率が悪くなり、前方を向いて背中を伸ばすと牽引の効率が上がるから。
同様の理由で、綱引き打ちでもバチの行き先となる打面を目視する必要はない。
腹部のすぐ前がバチの収まり所だと理解できれば、どれだけバチを浮かべてもそこに一直線に戻すだけで良いという安心感が生まれる。
その上で、宙空のバチを見上げつつ視線と逆方向にお腹を落下させれば、効率よく上半身を牽引できる。
ここまでは、槍投げ打ちと綱引き打ちの違いを際立たせるために、渾身の一打という極端なシチュエーションを選んで説明した。
そこからさじ加減を調節することで、ストロークも張力も小さい一打、ストロークは小さいが張力は大きい一打、ストロークは大きいが張力は小さい一打など、表現を自在に操ることができる。
これまで詳しく解説してきた槍投げ打ちと綱引き打ちを「誇張し過ぎたバージョン」とみなすなら、そこまで激しくしない「良い塩梅のバージョン」も当然ある。
極端に誇張しなければ、扇打ちも槍投げ打ちも綱引き打ちも、遠目にはさほど変わらない。
正面を向いたままでも視野のどこかに手首が映る程度のストロークまでであれば、視線の向きは変わらないし、肉の躍動の差も僅かだし、手首の軌道の違いも目立たない。
そんなわけで、張力の効かない扇打ちを主流としている和太鼓チームの中にも、槍投げ打ちや綱引き打ちを操る打ち手が紛れていることが稀にある。
チーム内でも該当者だけは、扇打ちで力いっぱい演奏している打ち手と同程度かそれ以上の深い音を、力みなく軽々と操ることができる。
ただ、いろんな曲に手を出しまくる和太鼓チームでは、動作の細かい質の違いにまでこだわっている余裕がなかなかないので、せっかく見出された打ち込みのコツがシェアされにくい。
成熟した民俗芸能の現場では、槍投げ打ちや綱引き打ちを良い塩梅で操っている打ち手の割合がもう少しだけ高い。
何故こんなに深い音を出せるのかと、不思議で仕方ないような高齢の熟練者も存在する。
そんな妙技がこそが目指すべき姿だと認識され、多くの人がそこを追い求めて打ち込んでいけば、張力でバチを操るなんて初歩のコツだと感じられる場にだって成長できる。
張力を用いたキレの良い技に、より多くの人が誤解なく近づくための工夫として、扇打ち、槍投げ打ち、綱引き打ちという大まかな分類を考案してみた。
昔ながらの民俗芸能にはこのカテゴリーに収まらない特殊な打法も息づいているが、張力を上手く操る打ち手の方が動きにキレがあり芯のある音を生み出せるという点は共通する。
言い落としているニュアンスもまだまだあるため、伝達のための言語表現をこれからも練っていきたい。